長崎地方裁判所佐世保支部 昭和33年(ワ)221号 判決 1962年12月17日
原告 山口美恵子
被告 長崎県
主文
原告の請求は、これを棄却する。
訴訟費用は、原告の負担とする。
事実
第一、当事者双方の申立
原告訴訟代理人は、「被告は原告に対し、金一、二〇〇、〇〇〇円およびこれに対する昭和三三年一一月一九日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決ならびに担保を条件とする仮執行の宣言を求め、被告訴訟代理人は主文同旨の判決を求めた。
第二、原告の請求の原因
一、原告は、佐世保市八幡町八番地、五十川昭子方に女中として稼働中、昭和三〇年一〇月二三日、同家の飼犬である大型秋田犬から同家庭内において咬みつかれ、かつ引きずり廻され、その生命、身体が重大な危険にさらされるに至つた。
しかして、右事故発生当時、五十川方に居合わせた某米国人の急告により、佐世保警察署城山巡査派出所勤務の巡査辻安夫は、拳銃を携帯して武装し、原告救助のため右事故現場に来り、原告が五十川方庭内において身体の自由を失い、なお猛犬に咬みつづけられて、その生命・身体が危険にさらされているのを現認したのである。
二、ところで、警察官は国民の生命・身体が危険にさらされているときには、これを救助すべき職務上の義務を有する公務員であるから、辻巡査は、原告が本件のように身体の危険にさらされ、かつ刻々とその危険が増大し、これを放置するとその生命にも危険を及ぼすべき恐れのある事故に遭遇しているのを現認したときには、一刻の猶予もせず臨機応変に適当な救助措置を講ずべき職責を有しているにも拘らず、何らの処置をすることなく数分後に右現場を退去したので、原告はその後救援にかけつけた他の警察官によつて右猛犬が射殺されるに至るまで相当長時間にわたつてその犬から咬みつづけられ、そのため身体全面に百ケ所以上の咬傷をうけ、その結果右腕は付根三糎位を残して切断、左腕は切断を免れたものの神経麻痺のため使用不能という損害を蒙つたのである。
三、被告は、辻巡査が右現場を一旦退去したのはパトロール警官に応援を求めるためであつた旨主張するが、辻巡査は本件現場には拳銃及び警棒を携帯して来たものである上、その現場到着時における被害者の状況は前述のとおりであつたのであるから、猛犬を一刻も早く原告から離れさすため、拳銃をもつて猛犬を射殺すべく、或はこれが困難であるときには、臨機に威嚇射撃をし又は警棒、その他木、石、水等を用いてその猛犬を原告から離れさす等の処置をとることが急務であつたというべきである。
そして本件現場の状況に照し、武装して本件現場に来た辻巡査においては、単独にてこれらの処置をなし得たはずであるし、仮に他の応援が必要であつたとしても、その現場にいた五十川昭子をして連絡をさせる等して、自己はその現場にあつて前述のような処置をとるべきであつて、理由如何を問わず本件現場を立去ることは許されなかつたのである。
しかるに、辻巡査はこれらの処置を全くなさずに現場を立去り、右猛犬はその後応援にかけつけた警官によつて射殺されたというような始末であり、仮に右猛犬の射殺が辻巡査によつてなされたとしても、辻巡査はその間何らの処置を講じなかつたことが明らかである。
四、以上のとおり辻巡査は、本件事故に際し原告の身体に対する危険を防止するため緊急措置を講じて救助すべき職責があるに拘らず、不注意にもこれを怠つたため、原告は前述のような大傷害を受けるに至つたのであるから、長崎県警察に対し行政上の監督権を有し、これの管理運営をなしている長崎県は原告に対し、原告が右受傷によつて被つた損害を賠償すべき義務がある。
五、原告は本件事故当時一七才の美貌の少女で、昼間は五十川方において稼働して学資を得、夜間は高等学校三年生として学業に励みその卒業を翌春にひかえ、将来に大きな希望を有していたのであるが、本件の大傷害のため、生命はとりとめたとはいえ、将来における就職、結婚等の希望は全く絶たれたばかりでなく、単独にては食事も、用便もできないというような悲惨な不具者となつてしまつたのであるから、これによつて受けた精神的苦痛は甚大であり、その慰藉料は金一、二〇〇、〇〇〇円が相当である。
六、以上により、原告は被告に対し右金一、二〇〇、〇〇〇円およびこれに対する本件訴状が被告に送達された日の翌日である昭和三三年一一月一九日から完済に至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
第三、被告の答弁
一、訴外辻安夫が長崎県佐世保警察署巡査であり、同警察署城山巡査派出所に勤務していたこと、原告が昭和三〇年一〇月二三日、五十川昭子の飼犬に咬みつかれ、傷害を受けたこと、その際辻巡査が救助を求められ、現場に赴いたことは認めるが、その余の事実は否認する。
二、本件事故及び辻巡査の救助の状況は次のとおりであるから、辻巡査が原告を救助するに際しとつた措置には何らの過失も違法もない。
本件の犬は、五十川昭子において本件事故発生より一五日位前に購入したものであるが、歩くときの背丈は原告の腰部附近、立つたときにおいては原告の背の高さにも達するほどの巨大な秋田犬で、もともと性獰猛で、人に咬みつく習癖があるところから前飼主がこれを殺害すべく某獣医に委託したものであつた。
昭和三〇年一〇月二三日午後一時頃、原告が五十川昭子の命により、五十川方玄関前に寝転んでいた右秋田犬をつなぐべく、これに手を近付けたところ、犬はいきなり原告の左手付根に咬みつき、更に驚いて逃げようとする原告にとびつき、その場に横転した原告を咬みついたり、引きずり廻したりして攻撃を続けるに至つた。
しかして、辻巡査が近隣の者の急告により本件現場に到着したのは、すでに犬の攻撃が開始されてから四〇分を経過した後であつたところ、犬はなお原告に咬みついており、犬と原告の身体とは密着した上、絶えず動き廻つている状況であり、かつ若し犬を射殺のため拳銃を発射した場合には被害者に命中する蓋然性が強く、他の方法では単独で犬を原告から離れさすことはできない反面、直ちには原告の生命に危険はない状況であつたため、辻巡査は被害者救助のためには応援を求めるのが適当と判断し、直ちにパトロール警官に連絡に向い、その後応援の鳥越巡査部長等が現場に馳けつけた際、犬が原告より少し離れたので、辻巡査において拳銃をもつて犬を射殺したのである。
三、更に、本件事故によつて原告が蒙つた傷害は、専ら原告又はその犬の飼主である五十川昭子、その他第三者の責に帰すべき事由によつて生じたものであり、辻巡査の原告に対する救助行為と原告の受傷との間には、因果関係がない。
すなわち、辻巡査が急告により本件現場にかけつけたのは、犬が原告に対し攻撃を開始してから四〇分を経過した後であり、仮にそうでないとしても、少なくとも一〇数分を経過した後のことであるところ、犬が人に咬みついたときの攻撃力は、最初においては極めて急激でありその破壊力は強大であるが、時の経過につれてその攻撃は緩慢となり破壞力も頓に微弱となることは公知の事実であるから、原告が本件事故によつて蒙つた傷害は、すべて辻巡査が現場に到着するまでに発生していたものであり、これらの傷害の結果と辻巡査の行為との間には何らの因果関係がない。
仮に辻巡査の現場到着後において、原告が何らかの傷害を受けたとしても、本件においてはその部位、程度等が全く不明であるし、なおそれが軽微であることは前述の事実によつて明らかである。
四、以上のとおりであるから、本件事故により原告の蒙つた損害につき、被告が責任を負うべき筋合はなく、原告の本訴請求は失当である。
第四、証拠<省略>
理由
一、次の(1) 乃至(3) の事実は、当事者間に争いがない。
(1) 訴外辻安夫が長崎県佐世保警察署巡査で、同警察署城山巡査派出所に勤務していること。
(2) 昭和三〇年一〇月二三日、佐世保市八幡町八番地、五十川昭子方庭内において、同家女中であつた原告が、同家飼犬である秋田犬に咬みつかれ、引きずりまわされたりして、身体に傷害を受けたこと。
(3) その際、近隣の者の急告により、辻巡査が原告救助のため右現場に至り、右犬から攻撃をうけている原告を現認したこと。
二、成立に争いない甲第二号証の二、三、第四号証の一乃至三、第五号証の二、第六号証の二、第八号証の二、第九号証の二、三ならびに証人舟倉二三枝、同鳥越正春(第一乃至三回)、同辻安夫(第一、二回)の各証言、原告本人尋問の結果(第一、二回)及び検証の結果を綜合すると、次の(1) 乃至(7) の各事実が認められる。
(1) 原告に咬みついた犬は、もと川下俊一の飼犬であつたが、その背丈は五尺を超える巨大な秋田犬で、性質は獰猛、人に咬みつく習癖があつたため、川下がこれの殺害を依頼して獣医星野徳治に引渡したものであつたのを、五十川昭子が本件事故発生より一五日位前に、これを購入したものであること。
(2) 昭和三〇年一〇月二三日午後一時頃、原告が五十川方庭内において右犬をつなぐべく手を近付けたところ、犬は、いきなり原告の左上肢の付根に咬みつき、逃げようとする原告に飛びついて横転させた上、身体の各所を咬みつづけ、原告を引きずるなどの攻撃を加えるに至つたこと。
(3) 辻巡査が近隣のものの急告により右事故現場に到着したのは、犬が原告に対し攻撃を開始してから既に二・三〇分間経過した後であるが、その間、その現場に居た五十川昭子は犬を原告からはなれさすことができず、徒らに餌をもつて犬を呼び寄せることをするに過ぎなかつたため、犬は前認定のような攻撃を続けながら、原告を約五・六米引きずつた上、餌のところと原告のところを行つたり来たりしながら、原告を咬みつづけるという状態であつたこと。
(4) 辻巡査が本件事故を現認したときには、原告は庭内に俯伏になつて倒れており、犬は前肢を原告の肩部に載せて原告に接着し、腕部を毛糸セーターの上から咬んだり、はなしたりしている状況であつたこと。
(5) 辻巡査は本件事故を現認した後、右のような状況では、犬を所携の拳銃にて射殺することは被害者に適中する可能性が強く危険であるため、むしろ原告救助のためには早急にパトロール警官の応援を求めることが適切であり、斯のような処置に出でても被害者の危険が早急に増大することはないと判断し、直ちに同家より約五十米下方にある家に至り、電話にて佐世保警察署に応援を求め、再び現場に引返したこと及び右連絡によりまもなく、佐世保警察署無線自動車警ら隊員である鳥越正春巡査部長外四名が現場に到着したが、その際犬が原告の傍を離れたので辻巡査がこれを射殺したこと。
(6) 辻巡査が本件事故を現認してから、応援を求める電話連絡をし再び現場に引返した時までの所要時間は約三、四分、応援警察官が到着し、且犬が射殺された時までの所要時間は約五、六分であつたこと。
(7) 原告は、右犬の攻撃により両側の腋窩部より上膊部に至るまでの間各三〇数ケ所の裂傷を負い、その傷の長さは一三糎より二、三粍に至るものであり、傷の深さは骨に達するものもあつたため、右上肢は上膊骨頭より四、五糎を残して切断し、左上肢は切断を免れたけれども神経切断、重要筋肉欠損のため、運動不可能の結果を招来するに至つたこと。
三、原告は、その本人尋問に際し(第一、二回)、原告が右犬から攻撃をうけてより辻巡査が現場に到着するまでの経過時間は約二、三〇分、辻巡査の現場到着より救助されるまでの所要時間は約二、三〇分であつた旨供述しているが、甲第四号証の二の記載及び右尋問に際しての原告の供述内容等を綜合して検討すると、右の経過時間に関する原告の供述内容は必ずしも正確とはいい難く、却つて証人鳥越正春(第二、三回)、同辻安夫(第一、二回)の各証言及び検証の結果によると、その時間的経過は前項のように認定するのが相当であるから、原告本人の右供述部分は採用することができないし、他に前項認定の諸事実を覆すに足る証拠はない。
四、ところで、警察事務の執行者たる警察官は、一般的に個人の生命、身体及び財産の保護、公共の安全と秩序の維持等の職責を有しているのであるから、本件のような事故を現認した警察官は、右事故による被害者の生命、身体に対する危険、或はこれらの危険の増大を防止するため、被害者を救助すべき職務上の義務を有していることが明らかである。
しかして、警察官がこのような危険にさらされた被害者を救助する行為は、多くの場合加害物乃至加害者に対する強制力の行使という形でなされるので、右の被害者に対する救助行為自体が警察権の行使にあたるようにみえるけれども、警察官によつて右のような救助行為がなされた場合の警察責任者は加害者乃至加害物件の管理者であつて、被害者はこれによつて利益をうけるに過ぎないから、警察官の右救助行為自体は、いわゆる権力行使にはあたらないと解せられるが、国家賠償法第一条に定める公務員による公権力の行使とは、公務員による権力行使のみならず純然たる私経済活動に属しない公の行政をひろく指称すると解するのが相当であるから、長崎県佐世保警察署巡査が故意又は過失によつて右の救助行為をなさず、これにより住民に損害を与えた場合には、県警察を維持し、警察の責務に任ずる長崎県は右損害を賠償すべき責任があることが明らかである。
五、そこで本件について考えるに、前認定の各事実によると、長崎県佐世保警察署巡査である辻安夫は、原告が猛犬に咬みつかれて受傷し、更にその犬の攻撃をうけているのを現認したのであるから、その犬乃至犬の管理者である五十川昭子に対し必要と認められる警察権を行使するか、或は他の方法を用いて原告を救助し、もつて原告の生命に対する危険或は身体に対する危険の拡大を防止すべき職務上の義務を負うに至つたというべきである。
ところで、警察官による警察権の行使は、常に法規の命ずるところに従つてなされなければならないが、ある事件の発生に際しなされる被害者救助行為のごときは、前叙のように、もともと警察が住民の利益を護ることによつて公共の安全を維持することを目的とする非権力作用であるから、特に法令によつて被害者から警察に対しその利益を要求する具体的権利、又は警察官等のとるべき具体的救助措置が定められていない以上、警察乃至警察官において、個々の事故発生に際し、具体的救助行為を裁量の上決定し、これをすることができると解するのが相当である。
したがつて、警察官によつてとられた具体的な措置又は行為が、当該危険に関し客観的に被害者救助行為と目される限り、換言すると、裁量によつてとられた具体的行為が、客観的に救助という目的から逸脱していない限り、警察官が救助行為をしなかつたということはできないのである。
しかして、或る行為が客観的に被害者救助行為にあたるかどうかは、救助にあたつた警察官の主観の如何にかかわらず事件の具体的状況との対比において、当該行為が被害者救助の目的を実現するにふさわしいか否かにより決定されるべきものであるところ、本件において辻巡査が事故を現認したときにおける被害者、犬、その他現場の状況、辻巡査が具体的になした行動、辻巡査の現場到着から原告が救助されるまでの所要時間等に関する前第二項に認定の各事実を綜合すると、右辻巡査のとつた行動をもつて原告に対する救助行為がなされたと解するのが相当である。
もつとも、前認定の本件事故の具体的状況のもとでは、原告を救助するために、原告主張のようなより適切な行為が存在し得、辻巡査においても或はこれらの行為に出でることができたかも知れないが、或る事故に際し被害者救助のためにとり得べき行為は多種多様であり、そのいずれが最善の手段であるかは、救助行為の性質上、具体的になされた行為の結果たる救助の成否如何によつて決定される場合が多い上、前叙のようにその救助行為の具体的決定について警察官に裁量が認められている以上、具体的に原告主張のような救助行為がなされなかつたとしても、これをもつて救助行為がなされなかつたということはできないことが明らかである。
六、以上認定のとおりであると、辻巡査の救助行為の不存在を前提として被告に対し、損害の賠償を求める原告の本訴請求は、その余の争点につき判断するまでもなく理由がないから、失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 林繁 三代英昭 大隅乙郎)